見あげる先の海
定期通院先の病院の売店が、にぎわっていた。
ひとが多いばかりでなく、誰もがどこかやわらかな雰囲気をまとっているのが、いつもと違っていた。普段よりも、病院の院内着のひとも多くいて、中には車いすで連れ立って一緒にお買い物に来たおじさまたちもいた。
場所柄いつも、張りつめた雰囲気のひとや、疲れ果てたひとを見ることが多かったし、診察開始時間前後や食事時ならともかく、朝の診察が落ち着いた時間帯が、こんなに混んでいたことはない。常とは違うその雰囲気の理由が、棚とひとばかり見ていたうちは、わからなかった。
たまたま、棚ののど飴に手を伸ばそうとした時、隣からにゅっと伸びてきた手が、いち早く同じ飴を掴んだ。車椅子の人だった。膝にぽんとのど飴を載せて、颯爽とレジの行列へ向かったそのひとは、列よりずいぶん手前でピタリと止まり、天井を見上げた。
つられて視線を上げると、そこに、海があった。
波のうねりのように、ゆったりとたゆませた水色と白のビニールテープが、天井を飾っていた。泡を模した、虹色の光を反射する円い飾りが、無機質な照明を反射して、きらきらと揺れていた。ビニール製のイルカやスイカも天井からつるされて、エアコンの風に吹かれてゆらゆらしていた。
働くひとたちの、手作りだろうか。昼間は忙しいところだ。もしかしたら多忙なレジ作業や品出し、発注などの合間に、何日もかけてせっせと作り上げたのかもしれない。ひとの少なくなる夜中などに、脚立を駆使して吊るしたのかもしれない。働くひとたちの間には、心の温度差だってあっただろう。ひとつやふたつの小競り合いだって、起こったかもしれない。
だけど、そんな気配など微塵も見せず、のんびりと、海は浮かんでいた。
同じ間隔を保ち、絶妙な高低のバランスを取って結び付けられたいくつもの飾りから、ひとつひとつ丁寧に、心を込めて作られたのが伝わってくる。義務的にやっつけ仕事をしたのでは、こんなふうにはならない。気持ちのほころびがどこかに透けて、ささくれて見えてしまうものだ。手作りの海から伝わってくるのは、楽しんでね、涼しんでね、せめて季節の変わった雰囲気を味わってねという想い。それを声高に主張するのではなく、さりげなくそこに在るだけの、奥ゆかしさ。
こういう、誰かの、さりげない想いに不意に触れると、泣きそうになる。その想いがあまりにうつくしくて。
元来、願いや祈りというものは、静かに在るものだと感じる。その静謐さが胸に響く。
私の住む街は海からも遠くない。車を走らせれば、一時間もせずにきらめく波を見ることはできる。だけどこの夏、海を見ないひとも、この病院にはいるだろう。目から感じる涼しさと季節の風景は、入院、通院するひとたちをはじめ、見舞客、働くひとたちそれぞれに、気持ちの良い風を届けてくれる。ひそやかなやさしさと一緒に。
祈りは、届く。
作りものの海を見上げるひとたちの顔は、まぶしいくらいに、明るかった。
0コメント