湾岸にきらめく彗星

奇跡的な幸運に恵まれて、奇跡的なチケットが取れた。発表からチケット手配、当日までがとても短かったが、その間に父が急逝して、いっそう目まぐるしく当日を迎えた。

心の準備のできていなかった突然の別れは、毎日をどうやって送るのかも忘れさせた。じわじわと悲しみに侵食される日々は昼も夜も時間の感覚も奪い去って、突然スイッチが入ったように泣き出すから、外を出歩けもしなかった。仕方なく人に会わざるを得ない時には、短時間に区切って微笑みの仮面をつけるけれど、家に戻れば反動で寝込んだ。

このタイミングで、郷里から親友が上京してくる予定のライブは、嬉しさというよりもどこか慰めに似た心持ちで近づいてきた。本当なら控えるべきなのだろうが、どうしても行きたいと思った。人が右を向くときに左を向け、と常に言っていた父だ、私のわがままも苦虫を噛み潰したような顔でいいから行ってこいと言ってくれる気がした。

100%を楽しめたか、といえば、きっと答えは否。「楽しむ」というポジティブで高まる気持ちよりも、「祈る」ような静かな感慨を握りしめた時間だった。だけど、凍土のような気持ちを抱えながらも、音に乗せて届けられるひとつひとつの言葉が滲み込んできた。

♪ラヴリーの「いつか悲しみで胸がいっぱいでも」の歌詞がこんなにも滲みた日はあったろうか。♪フクロウの声が聴こえる「弱き僕らの手をとり強くなれと教えてくれる」、♪流動体について「神の手の中にあるのなら宇宙の中でよいことを決意するくらい」、そして新譜からの♪失敗がいっぱい「涙に滅ぼされちゃいけない毎日にはなおす力がある」。

父と一緒に住んでいた頃に、私の部屋を満たしていた声の主から届けられる、今の言葉。目の前で変わらず頭を振りながらギターをかき鳴らすその笑顔。なによりも、楽しくて仕方がないと、その空気や雰囲気ごと聴衆に手渡していく彼のステージに、私は、父のいないこの日常を、自分の足で歩いていく力を少し分けてもらった気がした。

必要以上にウェットにもドライにもならず、ふつうの会話をしてくれる親友の心遣いもありがたかった。無理に笑わなくていい。悲しみに浸り過ぎなくてもいい。他愛ない話を続ける彼女がそっと寄り添ってくれ、強気強愛で、と言ってくれる言葉に、自然と肩に入っていたらしい力がふっとゆるんだ。

豊洲は満月だった。

発売されたばかりの17年ぶりのアルバム。相変わらず凝りすぎの盤を私たちは笑いながら賛美し、細胞のひとつひとつに言葉を滲み込ませるように音を浴びた。ギター、ベース、ドラムスの小編成で届けられる音は変わらずカッコよくて、気持ちの凍土部分に滴る言葉に何度か涙をこぼした。そして♪シナモン「夜の終わりは来る涙は乾く」。

♪彗星「再生する森満ちる月続いていく街の」、その続いていく日々へ、彼が最後に叫んだように「日常へ帰ろう!」。そうだ、そうなのだ。

今はじまった新しい日常の形は、いつかこの痛みも抱え込んでまるごとの宇宙になっていく。あの頃から今が続いている時間の中にあるように、ここから歩く日々の中にもかつての時間は踏みしめられていく。それはなくなったのではなくて、形を変えて存在するだけなのだ。きっと、父も。

夜道、満ちる月を見上げて、その空のずっと向こうを横切っているだろう、きらめく彗星を思った。


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>>>小沢健二さん Tweets


追記、ご本人instagramで「こちらで聴けます」と。

https://music.apple.com/jp/album/so-kakkoii-pluriverse/1486690775

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